松井秀喜や黒田博樹、田中将大など、多くの日本人選手が活躍してきたニューヨーク・ヤンキースは、メジャーリーグを代表する名門球団です。
そんなヤンキースには、キャプテンという名誉職があります。
今までキャプテンには、ルー・ゲーリッグやドン・マッティングリー、デレク・ジーターなど、メジャーリーグを代表する選手が就任してきました。
1970年代にメジャーリーグを代表する捕手だったサーマン・マンソンも、キャプテンを務めていました。
しかし、マンソンは飛行機事故により、現役中に亡くなったことでも知られています。
今回の記事では、マンソンの成績や活躍について解説します。
サーマン・マンソンの活躍
マンソンは1947年にオハイオ州で誕生し、1968年のドラフトにて、全体4位という高い順位で指名され、ニューヨーク・ヤンキースに入団しました。
1969年には、マイナーリーグにて打率.363を記録し、8月8日に早速メジャーリーグデビューを果たします。
この年は26試合の出場にとどまりますが、1970年にはメジャーリーグに定着し、132試合に出場して打率.302を残したため、新人王を受賞しました。
この活躍により、マンソンはヤンキースの新たな看板選手として期待されるようになります。
マンソンはその期待に応え、1971年にオールスターゲームに初めて選出されると、1973年には打率.301、OPS.849という好成績を残し、MVP投票では12位に入りました。
その後もマンソンは活躍を続け、1975年にはリーグ3位となる打率.318を記録し、MVP投票で7位に入ります。
1976年には、ヤンキースのキャプテンに任命されただけでなく、打率.302を記録し、ヤンキースを12年ぶりのワールドシリーズへと導きました。
ワールドシリーズでは、当時「ビッグレッドマシン」と呼ばれていたシンシナティ・レッズに敗れてしまいますが、チームのワールドシリーズ進出に貢献したことが認められ、マンソンはMVPを受賞しています。
そして、1977年には打率.308という好成績を残し、チームのワールドシリーズ制覇に貢献しました。
下の動画は、ワールドシリーズの第5戦にて、マンソンとヤンキースの主砲、レジー・ジャクソンが2者連続でホームランを放ったときのものです。
さらに、マンソンは1978年にも打率.297というまずまずの成績を残し、ヤンキースをプレーオフ進出に貢献します。
リーグチャンピオンシップシリーズでは、本塁打や盗塁阻止を記録するなど活躍し、ヤンキースは3年連続でワールドシリーズに進出しました。
そして、ワールドシリーズでは、マンソンは打率.320を記録し、2年連続のワールドシリーズ制覇に貢献しました。
下の動画は、マンソンはファウルフライを捕り、ヤンキースがワールドシリーズ制覇を決めた瞬間のものです。
ところで、マンソンはこの頃、自家用の小型飛行機であるセスナ機を購入していました。
1979年の8月2日、ヤンキースには試合がなかったため、マンソンはオハイオ州の自宅に戻り、セスナ機の離着陸の練習をしていました。
マンソンは順調に練習をこなしていましたが、最後の着陸の際に操作を誤り、滑走路の手前で木に接触してしまいます。
セスナ機に同乗していた友人とインストラクターは救出されましたが、マンソンは機体から出ることができず、煙を吸い込んだことにより、亡くなってしまいました。
マンソンの死後
マンソンの死の翌日、ヤンキース対ボルチモア・オリオールズの試合前には、マンソンに対して黙祷が捧げられました。
また、マンソンの葬儀は8月6日にオハイオ州で開かれ、ヤンキースの全選手が参列しています。
そして、その日の試合では、葬式で弔辞を読んだボビー・マーサーが本塁打とサヨナラ安打を放っています。
さらに、マンソンの死の直後、マンソンの背番号15はヤンキースの永久欠番に指定されました。
一方、1981年から始まったアメリカ野球殿堂入りへの投票では、得票率75%を得ることができず、殿堂入りを逃しています。
現役があと数年長ければ、殿堂入りすることができたと言われているようです。
マンソンのプレースタイル
マンソンの打撃の特徴は、高い打率を残すことのできる打撃技術です。
通算で打率.292を残しているだけなく、プレーオフでは通算で打率.357を記録しています。
また、守備力も非常に高く、通算の盗塁阻止率は44%に達し、ゴールドグラブを3度受賞しています。
そして、マンソンの最大の特徴は、チームを統率するリーダーシップでした。
当時のヤンキースは「ブロンクス動物園」と呼ばれるほど個性的なチームでしたが、マンソンはこれを統率し、2度のワールドシリーズ制覇に導いています。
しかし、マンソンは大のマスコミ嫌いだったのに対し、ヤンキースの主砲だったジャクソンはマスコミ受けが良かったため、2人は仲が悪かったようです。
マンソンの年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 打率 | OPS |
1969 | NYY | 26 | 22 | 1 | 9 | 10 | .256 | .679 |
1970 | NYY | 132 | 137 | 6 | 53 | 57 | .302 | .801 |
1971 | NYY | 125 | 113 | 10 | 42 | 52 | .251 | .703 |
1972 | NYY | 140 | 143 | 7 | 46 | 47 | .280 | .707 |
1973 | NYY | 147 | 156 | 20 | 74 | 48 | .301 | .849 |
1974 | NYY | 144 | 135 | 13 | 60 | 44 | .261 | .697 |
1975 | NYY | 157 | 190 | 12 | 102 | 45 | .318 | .795 |
1976 | NYY | 152 | 186 | 17 | 105 | 29 | .302 | .769 |
1977 | NYY | 149 | 183 | 18 | 100 | 39 | .308 | .813 |
1978 | NYY | 154 | 183 | 6 | 71 | 35 | .297 | .705 |
1979 | NYY | 97 | 110 | 3 | 39 | 32 | .288 | .714 |
通算 | 11年 | 1423 | 1558 | 113 | 701 | 438 | .292 | .756 |
- NYY:ニューヨーク・ヤンキース
各年度の太字はリーグ最高
マンソンにまつわるエピソード
① ブロンクス動物園
先ほど触れましたが、マンソンが在籍した頃のヤンキースは非常に個性的であり、「ブロンクス動物園(The Bronx Zoo)」と呼ばれていました。
特に、当時のヤンキースの打線は強力であり、ワールドシリーズ制覇を成し遂げた1977年には、以下のような打撃成績を残していました。
選手 | ポジション | 本塁打 | 打点 | 打率 | OPS |
サーマン・マンソン | C | 18 | 100 | .308 | .813 |
クリス・チャンブリス | 1B | 17 | 90 | .287 | .781 |
ウィリー・ランドルフ | 2B | 4 | 40 | .274 | .734 |
バッキー・デント | SS | 8 | 49 | .247 | .653 |
グレイグ・ネトルズ | 3B | 37 | 107 | .255 | .829 |
ロイ・ホワイト | LF | 14 | 52 | .268 | .762 |
ミッキー・リバース | CF | 12 | 69 | .326 | .789 |
レジー・ジャクソン | RF | 32 | 110 | .286 | .925 |
カルロス・メイ | DH | 2 | 16 | .227 | .601 |
この打線の主砲、ジャクソンは通算563本塁打を記録しており、アメリカ野球殿堂入りを果たしています。
下の動画は、ヤンキースが1977年にワールドシリーズ制覇を果たしたときのものです。
② ヤンキースのキャプテン
先ほども触れましたが、ヤンキースのキャプテンは名誉職です。
そのため、キャプテンにはそれぞれの時代の主力選手が就任していますが、時代によっては空席ということもあります。
下の表は、ヤンキースのキャプテンを務めた選手と、その期間、実績です。
選手 | 期間 | 主な実績 |
ハル・チェース | 1912 | 首位打者1回、通算2158安打 |
ロジャー・ペキンポー | 1914-1921 | MVP1回、通算1876安打 |
ベーブ・ルース | 1922 | アメリカ野球殿堂入り
本塁打王12回、通算714安打 |
エベレット・スコット | 1922-1925 | 通算1455安打 |
ルー・ゲーリッグ | 1935-1941 | アメリカ野球殿堂入り
本塁打王3回、打点王5回 |
サーマン・マンソン | 1976-1979 | MVP1回、ゴールドグラブ賞3回 |
グレイグ・ネトルズ | 1982-1984 | 本塁打王1回、通算390本塁打 |
ロン・ギドリー | 1986-1989 | サイ・ヤング賞1回、最多勝2回 |
ウィリー・ランドルフ | 1986-1989 | シルバースラッガー賞1回、通算2210安打 |
ドン・マッティングリー | 1991-1995 | 首位打者1回、ゴールドグラブ賞9回 |
デレク・ジーター | 2003-2014 | アメリカ野球殿堂入り
シルバースラッガー賞5回、通算3465安打 |
ルースは1922年5月20日にキャプテンに就任していますが、5日後に審判に泥を投げて退場になったため、キャプテンをはく奪されています。
また、ギドリーとランドルフは、共同でキャプテンを務めていました。
ジーターが引退して以降、キャプテンは不在となっていますが、2020年の時点でヤンキースには多くの有望な若手が在籍しているため、次のキャプテン誕生はそう遠くないかもしれません。
まとめ!
- サーマン・マンソンは好打の捕手であり、ヤンキースのキャプテンとしてチームを2度のワールドシリーズ制覇に導いた。
- マンソンは現役中の1979年、自家用飛行機の事故により無くなった。
- マンソンの最大の特徴はリーダーシップの強さであり、「ブロンクス動物園」と呼ばれた個性的なチームを統率した。