現在、野球評論家として活動している張本勲は、日本球界における最多安打記録(3085安打)や、日本球界史上唯一となる通算500本塁打300盗塁を達成していることで知られています。
一方で、張本は4歳のとき、火傷により右手の一部が不自由になりましたが、それを乗り越えて活躍していました。
ところで、張本のように手に不自由を抱えながら、日米で好打者として活躍した選手がいます。
その選手とは、シカゴ・ホワイトソックスや南海ホークスでプレーした、カルロス・メイという選手です。
今回の記事では、メイの成績や活躍について解説します。
カルロス・メイの活躍
メイは1948年にアラバマ州で誕生し、1966年のドラフトにて、全体18位という高い順位で指名され、シカゴ・ホワイトソックスに入団しました。
1967年には、わずか19歳ながらマイナーリーグで打率.338、OPS1.058を記録するなど、早速結果を残します。
翌年、メイはマイナーリーグにて打率.330、OPS.951と好成績を残し、その年の9月に20歳でメジャーリーグデビューを果たしました。
さらに、1969年には、開幕からメジャーリーグに定着しただけでなく、前半戦に18本塁打、OPS.882を記録しました。
その結果、オールスターゲームに選出され、新人王投票では3位に入りました。
しかし、そんなメイに悲劇が襲い掛かります。
1969年のオフシーズン、メイは兵役としてアメリカ海兵隊に従事していましたが、そこで迫撃砲を掃除していた際に、迫撃砲が暴発し、右手親指の第一関節から先を失ってしまいました。
そこで、メイはこれを克服するために打法を改造したのです。
その結果、1970年のシーズン、メイは年間を通してメジャーリーグに定着し、打率.285、OPS.788というまずまずの成績を残しました。
メイはその後も安定した成績を残し、1972年には打率.308、OPS.843を記録してオールスターゲームに選出されています。
なお、この年にホワイトソックスは87勝67敗という好成績を残したため、メイはMVP投票で21位に入りました。
しかし、1973年以降は成績が低迷し、1976年の5月に、トレードでニューヨーク・ヤンキースへと放出されてしまいます。
それでも、ヤンキース移籍後には打率.278というまずまずの成績を残し、ヤンキースのワールドシリーズ進出に貢献しました。
下の動画は、ヤンキースがワールドシリーズ進出を決めたときの動画です。
しかし、ワールドシリーズでは、メイは9打数無安打と苦戦したようです。
その後、メイはヤンキースでプレーを続けましたが、不振に陥ったため、カリフォルニア・エンゼルスに移籍しました。
さらに、オフシーズンにはエンゼルスよりFAとなり、南海ホークスに入団しています。
南海では、メイは実力を遺憾なく発揮し、3年連続の打率3割を達成しただけでなく、1980年には27本塁打、OPS.978を記録しました。
しかし、1981年には大腿筋や靭帯の故障に苦しんだため、シーズンの終盤に解雇され、後に現役を引退しました。
引退後のメイ
メイは引退後、20年に渡りアメリカ合衆国郵便公社で働いたようです。
一方、1983年にはアメリカ野球殿堂入りの投票対象となりましたが、票を得ることはできませんでした。
それでも、メイは現在ホワイトソックスの職員として、地域との交流を行っているようです。
メイのプレースタイル
メイの最大の特徴は、高い打率を残すことのできるバットコントロールです。
1971年の打率.294、1972年の打率.308は、それぞれリーグ7位、リーグ4位でした。
一方、長打力は南海に移籍してから開花したものであり、メジャーリーグでは20本が最多となっています。
さらに、1971年に16盗塁、1972年に23盗塁を記録するなど、スピードはまずまずでしたが、盗塁死も多く、メジャーリーグ通算では85盗塁となっています。
メイの年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 打率 | OPS |
1968 | CHW | 17 | 12 | 0 | 1 | 3 | .179 | .408 |
1969 | CHW | 100 | 103 | 18 | 62 | 58 | .281 | .873 |
1970 | CHW | 150 | 158 | 12 | 68 | 79 | .285 | .788 |
1971 | CHW | 141 | 147 | 7 | 70 | 62 | .294 | .781 |
1972 | CHW | 148 | 161 | 12 | 68 | 79 | .308 | .843 |
1973 | CHW | 149 | 148 | 20 | 96 | 53 | .268 | .747 |
1974 | CHW | 149 | 137 | 8 | 58 | 46 | .249 | .640 |
1975 | CHW | 128 | 123 | 8 | 53 | 67 | .271 | .747 |
1976 | CHW/NYY | 107 | 91 | 3 | 43 | 43 | .259 | .677 |
1977 | NYY/CAL | 76 | 48 | 2 | 17 | 22 | .236 | .623 |
1978 | 南海 | 123 | 129 | 12 | 80 | 54 | .312 | .847 |
1979 | 南海 | 117 | 122 | 26 | 75 | 46 | .307 | .925 |
1980 | 南海 | 124 | 138 | 27 | 75 | 51 | .326 | .978 |
1981 | 南海 | 51 | 42 | 5 | 22 | 23 | .259 | .735 |
MLB | 10年 | 1165 | 1127 | 90 | 536 | 512 | .274 | .749 |
NPB | 4年 | 415 | 431 | 70 | 252 | 174 | .309 | .896 |
- CHW:シカゴ・ホワイトソックス
- NYY:ニューヨーク・ヤンキース
- CAL:カリフォルニア・エンゼルス
各年度の太字はリーグ最高
メイにまつわるエピソード
① ブロンクス動物園
メイがヤンキースに在籍した頃、ヤンキースは黄金時代を迎えていました。
特に、当時のヤンキースの打線は強力であり、非常に個性豊かなチームだったことから、「ブロンクス動物園(The Bronx Zoo)」と呼ばれていました。
下の表は、当時のヤンキース打線と、ワールドシリーズ制覇を成し遂げた1977年の打撃成績です。
選手 | ポジション | 本塁打 | 打点 | 打率 | OPS |
サーマン・マンソン | C | 18 | 100 | .308 | .813 |
クリス・チャンブリス | 1B | 17 | 90 | .287 | .781 |
ウィリー・ランドルフ | 2B | 4 | 40 | .274 | .734 |
バッキー・デント | SS | 8 | 49 | .247 | .653 |
グレイグ・ネトルズ | 3B | 37 | 107 | .255 | .829 |
ロイ・ホワイト | LF | 14 | 52 | .268 | .762 |
ミッキー・リバース | CF | 12 | 69 | .326 | .789 |
レジー・ジャクソン | RF | 32 | 110 | .286 | .925 |
カルロス・メイ | DH | 2 | 16 | .227 | .601 |
この打線のうち、レジー・ジャクソンは通算563本塁打を記録し、本塁打王に4回輝いています。
また、サーマン・マンソンは強打の捕手として知られており、1976年にはMVPを受賞しています。
下の動画は、ヤンキースが1977年にワールドシリーズ制覇を果たしたときのものです。
② リー・メイの活躍
メイの兄、リー・メイもメジャーリーガーであり、通算2031安打、354本塁打を記録した強打者でした。
打撃タイトルとしては、1976年に打点王を獲得しただけでしたが、毎年安定した成績を残しており、1968年から11年連続で20本塁打、80打点以上を記録しています。
なお、リーは1969年、1971年、1972年と3度オールスターゲームに選出されていますが、弟のカルロスも1969年と1972年にオールスターゲームに選出されています。
このとき、リーはナショナルリーグ代表、カルロスはアメリカンリーグ代表として選出されており、メイ兄弟は「初めてオールスターゲームで対戦した兄弟」になりました。
下の動画は、リーがシンシナティ・レッズに在籍していたときのものです。
まとめ
- カルロス・メイは日米で打率3割を記録した好打者であり、右手親指の切断を乗り越えて活躍した。
- メイがヤンキースに在籍していた頃、ヤンキースは黄金時代を迎えており、「ブロンクス動物園」と呼ばれていた。
- メイの兄、リー・メイもメジャーリーガーであり、通算2031安打、354本塁打を記録した強打者だった。