2020年、秋山翔吾と筒香嘉智の2人の野手が、新たにメジャーリーグに挑戦にしました。
今まで多くの日本人野手がメジャーリーグに挑戦してきましたが、30本塁打や100打点を記録するなど、メジャーリーグでもホームランバッターとして活躍することができたのは、松井秀喜しかいません。
今回の記事では、松井のメジャーリーグでの成績や活躍について解説します。
松井秀喜、メジャーでの活躍
1992年のドラフトで読売ジャイアンツに入団した松井は、首位打者に1回、本塁打王と打点王に3回ずつ輝くなど、日本球界を代表する強打者として活躍していました。
そんな松井は、2002年のオフシーズンにFA権を行使し、3年2100万ドルという契約でニューヨーク・ヤンキースに入団します。
2003年の1月14日には、ニューヨーク市内のホテルで入団会見が行われ、監督のジョー・トーリや投手のロジャー・クレメンスだけでなく、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグも出席しました。
やがてシーズンが開幕すると、松井はレギュラーに定着し、4月8日の本拠地開幕戦ではメジャーリーグ初本塁打を放っています。
また、7月にはオールスターゲームに出場し、ワールドシリーズでも本塁打を放つなど、様々な場面で活躍しましたが、シーズン成績では16本塁打、OPS.788にとどまるなど、やや期待外れの結果に終わってしまいます。
そこで、松井はオフシーズンに大幅な筋肉増量に取り組み、その結果、2004年には本塁打が大幅に増え、31本塁打、OPS.912を記録しました。
特に、プレーオフでは打率.412、OPS1.221という驚異的な活躍を見せ、アメリカンリーグチャンピオンシップシリーズの第3戦では、5安打5打点を記録しています。
松井は2005年も活躍を続け、自己最高となる打率.305を残し、9月8日には日米通算400本塁打を達成しました。
オフシーズンには、今までの活躍が認められ、ヤンキースと新たに4年5200万ドルという契約を結びます。
しかし、2006年の5月11日、レッドソックス戦で浅めのフライに滑り込んだ際、左手首を骨折してしまいます。
これにより、1993年の8月22日から続いていた連続試合出場が、1768で途切れてしまいました。
それでも松井は2007年に復活を遂げ、故障に悩まされながらも25本塁打、OPS.855を記録します。
特に、7月には打率.345、OPS1.145という好成績を残し、月間MVPを受賞しました。
ところが、2008年には膝の故障に悩まされため、わずか93試合の出場にとどまり、OPSも.795と大きく成績を落としてしまいます。
その結果、2009年からは指名打者として起用されるようになりました。
しかし、これにより松井は復活を遂げ、メジャーリーグ移籍後では2番目に多い28本塁打を記録します。
松井はプレーオフでも活躍を続け、ワールドシリーズ第2戦には決勝本塁打を放ちました。
さらに、松井は優勝のかかった第6戦で6打点を記録したため、日本人選手として初めてワールドシリーズMVPを受賞しています。
シーズン終了後、ヤンキースとの契約が切れたため、松井はFAとなり、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと600万ドルの1年契約を結びました。
2010年の4月13日のヤンキース戦の際には、試合前にワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式があり、松井はスタンディングオベーションで迎えられています。
この年、松井は主に指名打者として出場し、21本塁打、OPS.820を記録しました。
しかし、好不調の波が激しかったため、エンゼルスから新しい契約を提示されることはなく、再びFAとなります。
その後、松井はオークランド・アスレチックスと425万ドルの1年契約を結びました。
しかし、前半戦の終了時点で打率.209にとどまるなど不振に陥り、先発を外れる機会も増えてきてしまいます。
それでも、7月20日のタイガース戦では日米通算500本塁打に達成しました。
ただ、8月以降はOPS.640と再び調子を落としてしまったため、シーズン終了後にFAとなっても所属先が決まらず、未所属のまま開幕を迎えてしまいます。
しかし、開幕後の4月30日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結び、5月29日にメジャーリーグに昇格した際には、本塁打を放ちました。
ところが、6月1日を最後に本塁打が出なくなり、打率も1割台と低迷したため、7月24日に戦力外通告を受けてしまいます。
その後、他球団からオファーを受けることがなかったため、12月27日に記者会見を開き、現役引退を表明しました。
なお、引退後の2013年7月28日にヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、引退セレモニーを行っています。
松井のプレースタイル
メジャーリーグの日本人選手で30本塁打以上を記録したことあるのは松井だけです。
しかし、そんな松井でも日本球界に比べると本塁打を放つペースが落ちてしまいました。
それでも、松井は打点にこだわっていたため、2005年には23本塁打ながらリーグ8位となる116打点を記録しています。
一方、守備に関しては、当初松井は主に左翼手として出場していました。
しかし、2007年以降、ヤンキースが守備を重視し始めたため、ジョニー・デーモンが左翼手として出場するようになり、指名打者として出場が増え始めました。
特に、2009年には指名打者に専念したため、守備に就く機会がなかったようです。
松井の年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 打率 | OPS |
1993 | 巨人 | 57 | 41 | 11 | 27 | 17 | .223 | .747 |
1994 | 巨人 | 130 | 148 | 20 | 66 | 57 | .294 | .843 |
1995 | 巨人 | 131 | 142 | 22 | 80 | 62 | .283 | .845 |
1996 | 巨人 | 130 | 153 | 38 | 99 | 71 | .314 | 1.023 |
1997 | 巨人 | 135 | 144 | 37 | 103 | 100 | .298 | .984 |
1998 | 巨人 | 135 | 142 | 34 | 100 | 104 | .292 | .984 |
1999 | 巨人 | 135 | 143 | 42 | 95 | 93 | .304 | 1.047 |
2000 | 巨人 | 135 | 150 | 42 | 108 | 106 | .316 | 1.092 |
2001 | 巨人 | 140 | 160 | 36 | 104 | 120 | .333 | 1.081 |
2002 | 巨人 | 140 | 167 | 50 | 107 | 114 | .334 | 1.153 |
2003 | NYY | 163 | 179 | 16 | 106 | 63 | .287 | .788 |
2004 | NYY | 162 | 174 | 31 | 108 | 88 | .298 | .912 |
2005 | NYY | 162 | 192 | 23 | 116 | 63 | .305 | .863 |
2006 | NYY | 51 | 52 | 8 | 29 | 27 | .302 | .887 |
2007 | NYY | 143 | 156 | 25 | 103 | 73 | .285 | .855 |
2008 | NYY | 93 | 99 | 9 | 45 | 38 | .294 | .795 |
2009 | NYY | 142 | 125 | 28 | 90 | 64 | .274 | .876 |
2010 | LAA | 145 | 132 | 21 | 84 | 67 | .274 | .820 |
2011 | OAK | 141 | 130 | 12 | 72 | 56 | .251 | .696 |
2012 | TB | 34 | 14 | 2 | 7 | 8 | .147 | .435 |
NPB | 10年 | 1268 | 1390 | 332 | 889 | 844 | .304 | .996 |
MLB | 10年 | 1236 | 1253 | 175 | 760 | 547 | .282 | .822 |
- NYY:ニューヨーク・ヤンキース
- LAA:ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム
- OAK:オークランド・アスレチックス
- TB:タンパベイ・レイズ
各年度の太字はリーグ最高
松井にまつわるエピソード
① ジーターとの関係
松井がヤンキースに所属していた頃、ヤンキースのキャプテンはデレク・ジーターでした。
ジーターと松井は同い年であるうえ、同じマンションに住んでいたため、食事やパーティーなどで交流することも多くあったようです。
また、2005年シーズン終了後に松井がFAになると知ったジーターは、「一緒に黄金時代を築きたい」と言って松井の残留を希望していました。
② 背番号55
松井は日本球界の頃から背番号55を付けており、ヤンキースに移籍してからも背番号55を付け続けました。
松井がエンゼルスに移籍した後、様々な選手が背番号55を付けており、2014年には後に東京ヤクルトスワローズでプレーするデビッド・ハフが背番号55を付けています。
松井はエンゼルスおよびアスレチックスでも背番号55を付けましたが、レイズに入団した際には背番号55が空いていなかったため、背番号35を付けました。
なお、当時レイズで背番号55を付けていたのは、後に福岡ソフトバンクホークスでプレーするマット・ムーアでした。
松井が入団した際、ムーアは松井に背番号55を譲ろうとしましたが、松井はこれを固辞し、背番号35を付けたそうです。
まとめ
- 松井は2003年にヤンキースに入団し、以後10年間にわたりメジャーリーグでプレーした。
- 2009年にはヤンキースのワールドシリーズ制覇に貢献し、ワールドシリーズMVPを受賞している。
- 松井はメジャーリーグにて打点にこだわっており、100打点を4回記録した。
- 松井とジーターは同じマンションに住んでいたため、深く交流していた。