2020年にメジャーリーグに挑戦した秋山翔吾、筒香嘉智、山口俊は、それぞれ日本球界で首位打者、本塁打王、最多勝を獲得しています。
このように、日本球界からメジャーリーグに挑戦する日本人選手の多くは、日本球界でタイトルを獲得するなど、輝かしい実績を残しています。
しかし、モントリオール・エクスポズなどで活躍した大家友和は、日本球界ではわずか1勝にとどまりながら、メジャーリーグでは先発投手として活躍し、通算51勝を記録しました。
今回の記事では、大家のメジャーリーグでの成績や活躍について解説します。
大家友和、メジャーでの活躍
1993年のドラフトで横浜ベイスターズに入団した大家は、1998年にイースタンリーグの最優秀防御率を獲得するなど、期待の若手として活躍していました。
しかし、当時の大家はメジャーリーグへの移籍を希望しており、1998年のオフシーズンに横浜が移籍を了承したため、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結びます。
その後、大家はレッドソックスのダブルAで開幕を迎えましたが、8勝0敗、防御率3.00と好投したため、6月にトリプルAに昇格します。
さらに、大家はトリプルAでも好投を続けたため、7月17日にメジャーリーグ昇格を果たしました。
それ以降、大家は降格と昇格を繰り返しましたが、10月1日のボルチモア・オリオールズ戦でメジャーリーグ初勝利を記録しています。
2000年、大家はトリプルAで開幕を迎えましたが、6月1日は完全試合を達成するなど活躍したため、7月21日にメジャーリーグに再昇格し、前年を上回る3勝、防御率3.12を記録しました。
しかし、2001年には開幕をメジャーリーグで迎えたものの、防御率6.19と苦戦したため、マイナーリーグに降格し、7月31日にはトレードでエクスポズに移籍してしまいます。
それでも、移籍後には防御率4.77と復調したうえ、2002年に先発ローテーションに定着し、チームトップとなる13勝、リーグ7位となる防御率3.18を記録しました。
さらに、2003年にも大家は先発ローテーションに定着し、10勝、防御率4.16を記録しています。
しかし、2004年には、ピッチャーライナーにより腕を骨折してしまったため、わずか15先発にとどまってしまいました。
そのうえ、2005年には制球難に悩まされたため、先発ローテーションから外されたうえ、6月10日にはトレードによりミルウォーキー・ブルワーズに移籍してしまいます。
それでも、移籍後には制球が安定したため、3度目の2桁勝利となる11勝を挙げました。
この活躍が認められ、オフシーズンに大家は1年453万ドルという契約でブルワーズに残留します。
ところが、大家は再び故障に悩まされ、わずか18先発、防御率4.82という成績に終わってしまいました。
シーズン終了後、大家はFAとなり、トロント・ブルージェイズと1年150万ドルという契約を結びます。
4月29日には日本人選手としては史上2人目となるメジャーリーグ通算50勝を記録しましたが、防御率5.79と苦戦したため、6月18日に解雇されてしまいました。
その後、大家はセントルイス・カージナルス、シアトル・マリナーズ、シカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結びましたが、メジャーリーグに昇格することはできませんでした。
それでも、クリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ2009年のシーズン、大家は2年ぶりにメジャーリーグに昇格します。
久々の先発登板となった6月13日のカージナルス戦では、7回2失点と好投しました。
しかし、シーズン通算では1勝、防御率5.96にとどまり、オフシーズンにはFAとなったため、横浜と2年契約を結び、日本球界に復帰しています。
なお、大家は2011年に横浜を退団した後、メジャーリーグ復帰を目指してブルージェイズやオリオールズとマイナー契約を結びましたが、復帰することはできず、2017年に現役引退を表明しました。
大家のプレースタイル
大家はメジャーリーグにて、フォーシームやツーシームを中心に、カットボール、スプリッター、スライダー、カーブを投げていました。
また、与四球も比較的少なく、エクスポズで活躍した2002~2003年には、与四球率(9回あたりの与四球の数)で2年連続リーグ5位を記録しています。
なお、横浜を退団して以降、大家はナックルボールを武器とすることで、メジャーリーグ復帰を目指していたようです。
大家の年度別成績
年度 | チーム | 勝利 | 敗戦 | 先発 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 防御率 |
1994 | 横浜 | 1 | 1 | 2 | 28.0 | 18 | 18 | 4.18 |
1995 | 横浜 | 0 | 0 | 1 | 9.1 | 13 | 6 | 1.93 |
1996 | 横浜 | 0 | 1 | 1 | 18.0 | 14 | 11 | 9.50 |
1998 | 横浜 | 0 | 0 | 0 | 2.0 | 2 | 1 | 9.00 |
1999 | BOS | 1 | 2 | 2 | 13.0 | 6 | 8 | 6.23 |
2000 | BOS | 3 | 6 | 12 | 69.1 | 26 | 40 | 3.12 |
2001 | BOS/MON | 3 | 9 | 21 | 107.0 | 29 | 68 | 5.47 |
2002 | MON | 13 | 8 | 31 | 192.2 | 45 | 118 | 3.18 |
2003 | MON | 10 | 12 | 34 | 199.0 | 45 | 118 | 4.16 |
2004 | MON | 3 | 7 | 15 | 84.2 | 20 | 38 | 3.40 |
2005 | WSH/MIL | 11 | 9 | 29 | 180.1 | 55 | 98 | 4.04 |
2006 | MIL | 4 | 5 | 18 | 97.0 | 35 | 50 | 4.82 |
2007 | TOR | 2 | 5 | 10 | 56.0 | 22 | 21 | 5.79 |
2009 | CLE | 1 | 5 | 6 | 71.0 | 19 | 31 | 5.96 |
2010 | 横浜 | 8 | 9 | 22 | 121.2 | 22 | 62 | 4.59 |
2011 | 横浜 | 0 | 6 | 7 | 32.2 | 10 | 14 | 6.89 |
NPB | 6年 | 8 | 17 | 33 | 211.2 | 79 | 112 | 5.23 |
MLB | 10年 | 51 | 68 | 178 | 1070.0 | 302 | 590 | 4.26 |
- BOS:ボストン・レッドソックス
- MON:モントリオール・エクスポズ
- WSH:ワシントン・ナショナルズ
- MIL:ミルウォーキー・ブルワーズ
- TOR:トロント・ブルージェイズ
- CLE:クリーブランド・インディアンス
各年度の太字はリーグ最高
大家にまつわるエピソード
① 自由契約によるメジャーリーグ挑戦
大家はメジャーリーグに挑戦する際、球団に挑戦する希望を伝えて自由契約となることで、レッドソックスとマイナー契約を結びました。
このように、球団に希望を伝えて自由契約になることでメジャーリーグに挑戦した選手としては、他に斎藤隆と井口資仁が挙げられます。
また、球団に希望を伝えるのではなく、いわゆる戦力外通告により自由契約となり、その後メジャーリーグに挑戦した選手もいます。
そのような選手としては、野村貴仁や桑田真澄、村田透が挙げられます。
このうち、野村は日本球界で338登板、桑田は173勝を記録してからメジャーリーグに挑戦しましたが、村田は1軍で登板することなくメジャーリーグに挑戦し、見事にメジャーリーグに昇格しました。
村田はメジャーリーグで1登板に終わりましたが、後に日本球界に復帰し、2020年9月20日時点で通算8勝を記録しています。
下の動画は、村田が日本球界復帰後に初勝利を記録したときのものです。
② モントリオール・エクスポズ
大家は2001年のシーズン途中にエクスポズに移籍し、2005年のシーズン途中まで在籍していました。
しかし、大家が在籍している間の2005年、エクスポズはワシントンD.C.に移転し、チーム名もナショナルズに変えています。
この移転は、エクスポズが深刻な財政難と人気低迷に陥っていたため、メジャーリーグ機構が当時のオーナーよりエクスポズの経営権を買収したために起こりました。
エクスポズは36年の歴史の中で、プレーオフに1度しか進出できませんでしたが、ナショナルズとなってからは15年間で5度プレーオフに進出し、2019年にはワールドシリーズ制覇を果たしています。
まとめ
- 大家は1999年にレッドソックスに入団し、以後10年間で51勝を記録した。
- 大家は主にエクスポズで活躍し、2002年には13勝、リーグ7位となる防御率3.18を記録している。
- 大家はメジャーリーグにて、フォーシームやツーシームを中心に、カットボール、スプリッター、スライダー、カーブを投げていた。