2012年に引退した松井秀喜は、主に読売ジャイアンツとニューヨーク・ヤンキースでプレーし、両方のチームで4番打者を務めていました。
しかし、初めて巨人とヤンキースの両方で4番打者を務めたのは、松井ではありません。
その選手とは、1970年代にヤンキースで活躍し、その後巨人に移籍したロイ・ホワイトという選手です。
今回の記事では、ホワイトの成績や活躍について解説します。
ロイ・ホワイトの活躍
ホワイトは1943年にカリフォルニア州で誕生し、1961年にニューヨーク・ヤンキースに入団しました。
1963年には、マイナーリーグにて打率.309を残すなど、すぐに頭角を現し、1965年9月7日にメジャーリーグデビューを果たします。
しかし、それ以降は好成績を残すことができず、1967年にはマイナーリーグへの降格を経験しています。
それでも、1968年にはついにメジャーリーグに定着し、打率.267、17本塁打、20盗塁という成績を残したため、MVP投票では12位に入りました。
その後もホワイトは安定した成績を残し、1969年と1970年には、2年連続でオールスターゲームに選出されています。
特に、1970年にはリーグ5位となる180安打を記録しただけでなく、22本塁打、24盗塁、外野守備ではわずか2失策と、走攻守で活躍しました。
その後、ホワイトの成績はやや下降しますが、1972年にはリーグ最多となる99四球を選び、1973年には全試合に出場しています。
そんなホワイトでしたが、1975年には打率.286、31盗塁という好成績を残し、ヤンキースの12年ぶりとなるワールドシリーズ進出に貢献しました。
ワールドシリーズでは、当時「ビッグレッドマシン」と呼ばれていたシンシナティ・レッズに敗れてしまいましたが、ホワイトはその活躍が認められ、MVP投票で26位に入っています。
ホワイトはその後も安定した成績を残し、1977年、1978年のヤンキースのワールドシリーズ連覇に貢献しました。
1978年のワールドシリーズ第3戦では、ロサンゼルス・ドジャースのエースであるドン・サットンから本塁打を放っています。
しかし、1979年には一転して不振に陥り、オフシーズンにはヤンキースを退団して、読売ジャイアンツに入団しました。
すると、移籍1年目から強打者として活躍し、打率.284、29本塁打、13盗塁を記録します。
さらに、1981年には、日本シリーズ第2戦にて逆転本塁打を放つなど活躍し、巨人の日本一に貢献しています。
しかし、ホワイトは1982年のシーズンを最後に、現役を引退してしまいました。
引退後のロイ・ホワイト
ホワイトは1985年にアメリカ野球殿堂入りの投票対象となりましたが、票を得ることはできませんでした。
一方、ホワイトは引退後、5シーズン(1983~1984年、1986年、2004~2005年)に渡りヤンキースの一塁ベースコーチを勤めました。
また、ホワイトは慈善活動に取り組んでおり、2002年には大学に通えない子どもを支援する「ロイ・ホワイト基金」を立ち上げています。
さらに、ホワイトはヤンキースとの交流を続けており、現在でもヤンキースのイベントに参加することがあるようです。
下の動画は、インタビューにおいて、ホワイトが1976年のヤンキースについて振り返ったときのものです。
ロイ・ホワイトのプレースタイル
ホワイトは現役時代、高い出塁能力を誇っており、メジャーリーグ通算で打率.271、出塁率.360を記録しています。
また、通算で233盗塁、外野手として守備率.988を記録しており、走攻守で安定した成績を残すことができる選手でした。
なお、ヤンキースで長く主力選手として活躍したことから、長いヤンキースの歴史の中でも、1803安打は11位、934四球は8位、233盗塁は6位につけています。
ロイ・ホワイトの年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 打率 | OPS |
1965 | NYY | 14 | 14 | 0 | 3 | 4 | .333 | .785 |
1966 | NYY | 115 | 71 | 7 | 20 | 37 | .225 | .653 |
1967 | NYY | 70 | 48 | 2 | 18 | 19 | .224 | .577 |
1968 | NYY | 159 | 154 | 17 | 62 | 73 | .267 | .764 |
1969 | NYY | 130 | 130 | 7 | 74 | 81 | .290 | .818 |
1970 | NYY | 162 | 180 | 22 | 94 | 95 | .296 | .860 |
1971 | NYY | 147 | 153 | 19 | 84 | 86 | .292 | .857 |
1972 | NYY | 155 | 150 | 10 | 54 | 99 | .270 | .760 |
1973 | NYY | 162 | 157 | 18 | 60 | 78 | .246 | .703 |
1974 | NYY | 136 | 130 | 7 | 43 | 67 | .275 | .761 |
1975 | NYY | 148 | 161 | 12 | 59 | 72 | .290 | .802 |
1976 | NYY | 156 | 179 | 14 | 65 | 83 | .286 | .774 |
1977 | NYY | 143 | 139 | 14 | 52 | 75 | .268 | .762 |
1978 | NYY | 103 | 93 | 8 | 43 | 42 | .269 | .742 |
1979 | NYY | 81 | 44 | 3 | 27 | 23 | .215 | .578 |
1980 | 巨人 | 128 | 133 | 29 | 75 | 58 | .284 | .879 |
1981 | 巨人 | 127 | 115 | 13 | 55 | 61 | .273 | .796 |
1982 | 巨人 | 107 | 100 | 12 | 42 | 29 | .296 | .788 |
MLB | 15年 | 1881 | 1803 | 160 | 758 | 934 | .271 | .764 |
NPB | 3年 | 362 | 348 | 54 | 172 | 148 | .283 | .826 |
- NYY:ニューヨーク・ヤンキース
各年度の太字はリーグ最高
ロイ・ホワイトにまつわるエピソード
① ブロンクス動物園
ホワイトがヤンキースに所属していた1970年代後半、ヤンキースは3度のリーグ優勝、2度のワールドシリーズ制覇を成し遂げるなど、黄金時代を迎えていました。
また、当時のヤンキースは非常に個性的であり、「ブロンクス動物園」と呼ばれていました。
下の表は、そんな「ブロンクス動物園」の、1977年の打線です。
選手 | ポジション | 本塁打 | 打点 | 打率 | OPS |
サーマン・マンソン | C | 18 | 100 | .308 | .813 |
クリス・チャンブリス | 1B | 17 | 90 | .287 | .781 |
ウィリー・ランドルフ | 2B | 4 | 40 | .274 | .734 |
バッキー・デント | SS | 8 | 49 | .247 | .653 |
グレイグ・ネトルズ | 3B | 37 | 107 | .255 | .829 |
ロイ・ホワイト | LF | 14 | 52 | .268 | .762 |
ミッキー・リバース | CF | 12 | 69 | .326 | .789 |
レジー・ジャクソン | RF | 32 | 110 | .286 | .925 |
カルロス・メイ | DH | 2 | 16 | .227 | .601 |
この打線のうち、ジャクソンは通算563本塁打を記録しており、アメリカ野球殿堂入りを果たしています。
また、当時のヤンキースのキャプテンを務めていたマンソンは、好打の捕手として知られ、1976年にMVPを受賞しました。
なお、DHを務めていたメイは、ホワイトと同様に日本球界(南海ホークス)に移籍しています。
下の動画は、ヤンキースが1977年にワールドシリーズ制覇を果たしたときのものです。
② ブロンクス動物園と日本球界
ブロンクス動物園と呼ばれた1970年代後半のヤンキースには、メイとホワイトに他にも、日本球界に移籍した選手がいました。
まず、1978年にヤンキースに所属した外野手、ゲーリー・トマソンは、1981~1982年に読売ジャイアンツに所属しています。
このとき、トマソンはホワイトとチームメートでしたが、2年間で打率.249、20本塁打と、あまり活躍することができませんでした。
また、1978~1983年にヤンキースに所属した投手、リッチ・ゴセージは、1990年にダイエー・ホークスに所属しています。
ゴセージはメジャーリーグ時代、1002試合に登板し、通算310セーブ、防御率3.01を記録した、メジャーリーグを代表するクローザーでした。
下の動画は、1988年にゴセージが通算300セーブを達成したときのものです。
しかし、ホークスでは防御率4.40と苦戦し、1年で退団しています。
それでも、長らくクローザーとして活躍したことが認められ、2008年にはアメリカ野球殿堂入りを果たしました。
まとめ
- ロイ・ホワイトは初めて巨人とヤンキースの両方で4番打者を務めた選手であり、メジャーリーグでは通算1803安打、打率.271を記録した。
- ホワイトがヤンキースにヤンキースは黄金時代を迎えており、「ブロンクス動物園」と呼ばれていた。
- ブロンクス動物園からは、ホワイトだけでなくカルロス・メイやリッチ・ゴセージなど、4人の選手が日本球界に移籍した。