あれが僕の人生なんだと思います。
あそこでスライダーを投げたのも、スローボールを投げたのも、僕の人生なんです。
あの舞台を経験できたので、それからは、勝ちにこだわるようになりました。
強くなれたっていうのは自分の中にあります。
僕も小林も、プロに入る夢を果たせたので、いい経験をさせてもらったのかなと思います。
第89回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦を振り返って、広島東洋カープで活躍中の野村が2016年に語った言葉です。
野村の高校入学から、今でも語り継がれることとなった佐賀北との決勝戦までを振り返ります。
野村祐輔の高校時代
広陵高校入学
野村は、岡山県倉敷市出身。
小学校1年生の時に軟式野球を始め、6年生の時には県大会で準優勝。
中学では地元の硬式野球チームで2番手投手として活躍し、西日本大会で優勝を果たしています。
もともとは「地元の岡山の高校で甲子園に」という気持ちが強かった野村でしたが、2003年のセンバツで広陵が優勝するのをテレビで見て、親から「目指してみんか?」と言われ見学に行き、自身の判断で入学を決めています。
時を同じくして、大阪から広陵を見学し、一般受験で入学したのが、のちに野村とバッテリーを組むことになる小林誠司(読売ジャイアンツ)でした。
野村祐輔の素質
入学当初は、ものすごい剛球を投げている感じではなかった野村でしたが、コントロールが良く、しかも投球にうまさと賢さがあり、考える力がありました。
当時の野村を見た中井哲之監督は、「これが力強くなれば球速も速くなるだろう」、「うまいな、伸びしろがあるな」と感じていました。
そんな野村は1年生の時からベンチ入りし、甲子園には3年の第79回選抜高等学校野球大会と第89回全国高等学校野球選手権大会に出場しています。
選抜大会では、1回戦で唐川侑己(千葉ロッテマリーンズ)を擁する成田高校を延長戦の末に2-1で制し、2回戦は北陽高校に5-3で勝利するも、準々決勝で中村晃(福岡ソフトバンクホークス)や杉谷拳士(北海道日本ハムファイターズ)擁する帝京に1-7で敗れました。
第89回全国高等学校野球選手権大会
この大会から、「東西対抗方式」から「全地区フリー抽選方式」となり、南北に分かれている北海道と東西に分かれている東京の2校以外は、地区に関係なくフリーの抽選が行われるようになった最初の大会。
広陵は、1回戦で、前年まで3年連続で決勝に進出していた駒大苫小牧と対戦。9回2死から逆転し5-4で勝利。2回戦の東福岡戦は打線が繋がり14-2、3回戦の聖光学院戦(8-2)、準々決勝の今治西戦(7-1)と危なげなく勝ち進み、準決勝では、その年のセンバツを制した常葉菊川と対戦します。
この試合で野村は12安打を浴び、9回は2死走者なしから3連打で2点を返され1点差とされるもそのまま逃げ切り、4-3で決勝進出を果たします。
決勝は佐賀県代表の佐賀北。
佐賀北は、練習時間は午後7時30分まで、試験の1週間前からは部活動を休止するというふつうの県立高校。
7年ぶり2度目の出場となった今大会の開幕試合で、福井商に快勝して甲子園初勝利をあげると、2回戦の宇治山田商戦では延長15回引き分け後の再試合を制し、準々決勝の帝京戦でも延長13回の熱戦を戦い抜き、決勝に駒を進めてきました。
試合は4-0で広陵がリードし、8回裏を迎えます。
7回まで被安打1と完璧な投球を見せていた野村でしたが、1死から8番打者の久保に緩いボールを打たれ4イニングぶりとなる安打を許します。
5万人の歓声がこの安打をきっかけに徐々にヒートアップしていき、その後も連打と2四球で1点を返されると、観衆のボルテージはピークを迎えます。
そして満塁の場面で3番打者の副島にレフトスタンドへの逆転満塁本塁打を打たれ、4-5で優勝を逃すことになります。
野村祐輔まとめ!
- 広陵への進学は自身で決断
- 現読売ジャイアンツの小林誠司とバッテリー
- 佐賀北戦は勝ちにこだわるいい経験
野村と小林のバッテリーが佐賀北との戦いで後悔した1球は、満塁本塁打を打たれた甘く入ったスライダーではなく、1死から打たれた8番打者に投じた1球でした。
打撃力の劣る8番打者に対して緩いボールを投げてしまい、「根拠のないボールだった」とのちに語っています。
この安打をきっかけに甲子園の空気は一変。
微妙な審判のストライクゾーンをはじめ、広陵にとっては逆風とも言える雰囲気に包まれた甲子園球場。
弱冠17歳の高校生には残酷なシーンとさえいえるものでした。