日本のプロ野球だけでなく、メジャーリーグでも輝かしい実績を残した松井秀喜選手。
そんな松井選手の高校時代を振り返って行きます。
松井秀喜の高校時代
星稜高校進学
多くの学校から誘いのあった松井が星稜高校への進路を選択した決め手とはいったい何だったのでしょうか。
松井は、石川県能美郡根上町(現・能美市)の出身。
当初、松井は自宅から自転車で20分ほどの距離にある石川県立小松明峰高校への進学を考えていました。自宅から近いだけでなく、兄の利喜も進学していたことも大きな要因でした。
そんな松井が高校進学よりも強く望んでいたのが、「慶應大学に進学して六大学野球をやりたい。」ということ。このことも大学進学率の高い小松明峰高校への進学を後押しする要因になっていました。
松井の通っていた中学校の野球部の高桑コーチは、星稜高校野球部監督の山下の教え子でした。たまたま野球部の練習を見に来た山下が、当時、キャッチャーをやっていた2年生の松井を見て一目惚れ。山下は、教え子である高桑を通じて、「ぜひ星稜に来てほしい」と呼びかけることになります。
「大学で野球がしたいなら中途半端に勉強して大学を狙うより、野球一本に絞って野球の実力で行った方がいい。星稜だったら慶應に行って六大学野球をするにも申し分ない。」と猛烈に星稜入りを勧めました。
悩んだ松井でしたが、このアドバイスが決め手となり自身で星稜への入学を決めます。
星稜高校、松井秀喜
松井は星稜高校には投手としての入部でしたが、最終的には三塁手に転向しています。1年生から4番を務め(なお、この時の5番打者が当時3年生の松村有人(元福岡ソフトバンクホークス))、その年の夏、2年の夏、3年の春夏と甲子園には4季出場しています。
最高成績は、2年夏のベスト4進出でした。
松井秀喜の甲子園成績
打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 | |
選抜高校野球(春) | 10 | 6 | 3 | 9 | .600 |
全国高校野球(夏) | 22 | 5 | 1 | 6 | .227 |
通算 | 32 | 11 | 4 | 15 | .344 |
第64回の1回戦、宮古戦で松井が放った本塁打は、甲子園ラッキーゾーン撤去後第1号でした。
5打席連続敬遠
松井の甲子園を語る上で、外すことの出来ないエピソードと言えば、高校最後の夏の大会での明徳義塾戦、5打席連続敬遠ではないでしょうか。
この大会で、松井のいる星稜高校は初戦で長岡向陵と対戦。先発全員の17安打で11点を奪って大勝。松井自身も本塁打こそなかったものの、強烈な三塁打を放って存在を示していました。
その試合を観戦していたのが2回戦で対戦する明徳義塾の馬淵監督でした。馬淵監督はその後の星稜高校の練習も偵察し、改めて松井のパワーを目にして「腹をくくった」と言われています。そして試合前日の宿舎での全体ミーティングで、「四番打者(松井)でファーストベースが空いている時は歩かせ、五番六番で勝負する」と伝えたのです。
一方で星稜の山下監督も、松井に対し、「ランナーおる時は敬遠あるからな」と告げていました。
結果、この試合の松井の全打席(5打席)は敬遠でした。
ただし、公式記録としては捕手が初めから立った状態で四球を与えたわけではなかったため、「故意四球」ではなく「四球」が記録されています。
松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開いたり、高校野球は勝利至上主義だとの意見が広まるなど、社会問題にまで発展。
明徳義塾の馬淵監督は、試合後、「高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしていることからも、松井の実力が全国の高校球児の中でも群を抜いていた存在であったことを認めていました。
松井秀喜の高校時代まとめ!
- 慶應大学に進学し、六大学野球が夢だった
- 高校1年の夏から四番打者
- ラッキーゾーン撤去後の第1号本塁打
- 明徳義塾戦での5打席連続敬遠
松井の1歳年上に、同じくメジャーリーグで大活躍したイチローがいました。松井の星稜とイチローの愛工大名電は1990年に金沢で練習試合をしています。
すでにこの時からお互いを「すごいバッター」と認め合っていましたが、翌年は名古屋へ。しかし、練習試合は雨で中止となり、寮の広間で両校の選手が野球談議で盛り上がっていた頃、この2人は風呂場で密談をしていたと言われています。
日本球界のみならずメジャーリーグでも大活躍した2人の風呂場での密談。
この時、2人の間では将来のプロ入りについての話がされていたと言われていますが、メジャーリーグの話までに及んでいたのでしょうか。