プロ野球現役選手の最年長プレイヤーである福留孝介。
阪神タイガースにおいて、満43歳での開幕スタメンは金本知憲の44歳に次ぐ球団2番目の記録です。
1999年に中日ドラゴンズに入団以降、大リーグ(シカゴ・カブス、クリーブランド・インディアンス、シカゴ・ホワイトソックス)、阪神タイガースと現役を続け、21年間もの長きにわたり活躍し続ける福留選手の高校時代を振り返って行きます。
福留孝介の高校時代
PL学園入学
福留は鹿児島県曽於郡大崎町の出身。
中学時代は硬式野球のボーイズリーグで全国大会に出場し、3番、遊撃手として全国優勝を経験しています。
当時、実家の近くでキャンプをしていたのが、後に入団することになる中日ドラゴンズでした。子供のころから親に連れられキャンプを見に行くようになった福留は、そこで立浪和義と出会います。大きな選手がいる中でも小柄な立浪がひと際目立って見え、また、その時にサインとバットをもらい、「すごいな~」と感動していたようです。
鹿児島実業、樟南、鹿児島商など11校からの勧誘を受けていた福留でしたが、「僕は行かないから、聞く必要はないよ。」と母親に言い、立浪への憧れと多くのプロ野球選手を輩出し、全国の頂点を極めたPL学園への入学を選択します。
当時としては、前例のない鹿児島からの野球留学でもありました。
PL学園時代
PL学園に入学後、1年生の5月に2打席連続本塁打を放ったことが認められ、5番、三塁手に抜擢されます。秋からは4番、遊撃手として活躍しました。
翌年の第66回選抜高等学校野球大会に2年生としては唯一のレギュラー選手として出場。
優勝した智辯和歌山に準決勝で敗退するものの、準々決勝で2安打3打点と活躍するなど、「PL学園・福留孝介」を印象付けるには十分な大会となりました。
つづく夏の大阪大会では近大付属に敗退し、甲子園出場はなりませんでした。
最上級生になり、福留はチームのキャプテンになります。
迎えた秋の大阪大会と近畿大会を制覇し、第67回選抜高等学校野球大会への出場を決めます。
PL学園は1回戦で銚子商業と対戦。
試合は、7-10で敗退となったが、福留はバックスクリーンへ3点本塁打を放ちました。
3年生最後の夏の大会の大阪大会では、8試合で7本の本塁打を放つ活躍で見事に優勝。
第77回全国高等学校野球選手権大会への出場を決めます。
1回戦の相手は北海道工。
福留は2打席連続本塁打を含む3打数3安打6打点の活躍で勝利に貢献。
その後も勝ち進んだもののチームは準々決勝で智弁学園に敗退しています。
【第77回全国高等学校野球選手権大会・個人成績】
打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 | |
福留孝介 | 15 | 7 | 2 | 7 | .467 |
3度出場した甲子園では残念ながら全国優勝を果たすことが出来なかった福留擁するPL学園ですが、同年の国体秋季大会で、福留が高校通算40本塁打を記録。チームも見事、優勝を飾ることができました。
福留孝介まとめ!
- 当時としては、前例のない鹿児島からの野球留学でPL学園入学
- PL学園入学には、立浪和義への憧れが大きかった
- 1年の夏からクリーンアップで活躍
- 3年の夏の大阪大会で8試合7本塁打を記録
甲子園で大活躍した福留は、当然のようにドラフト会議で注目される選手となりました。
高校生の指名としては歴代最多の7球団(中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、近鉄バファローズ、日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、オリックス・ブルーウェーブ、ヤクルトスワローズ)が1位指名で競合することになります。
それまでの最高指名は、同じPL学園の先輩でもある清原和博の6球団でした。
抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得するも、中日と読売以外なら社会人野球に進むとの意思を示していた福留は近鉄入団を拒否。その後、社会人野球(日本生命)を経て、子供のころから憧れだった立浪と同じ中日に入団することになるのです。