「僕は、体が小さいですから、根性と気迫ではだれにも負けないような選手になりたいと思っています」
これは立浪和義が、中日ドラゴンズの入団会見の席で語った言葉です。
立浪の身長は公称で173cm(70kg)。
小さい体でありながら、体の大きな猛者たちが集うプロの世界で、22年間をプレーし、歴代11位の2480安打を放つだけでなく、日本記録となる487本の二塁打を放ちました。
また、守っては、二塁手・三塁手・遊撃手の3つのポジションで合計5回のゴールデングラブ賞を獲得し、晴れて野球殿堂入りを果たしています。
そんな立浪の高校時代を振り返って行きます。
立浪和義の高校時代
PL学園入学
立浪は大阪府吹田市の出身。
小学4年生から茨木ナニワボーイズで野球をはじめ、6年生まで投手をしていましたが、ひじを痛めて内野手へ転向しています。なお、その時に立浪の代わりエースになったのが、後にPL学園でチームメイトとなる橋本清(元;読売ジャイアンツ)でした。
中学でも活躍した立浪は、一度は大阪商業大学堺高等学校への進学を決めていましたが、
「PLには選ばれた選手しか入れなかった。そのPLに声をかけてもらったのだから、行くしかないな。」
という理由で、土壇場でどこよりも生存競争の厳しいPL学園に進路を変更します。
2学年先輩には、桑田真澄・清原和博のKKコンビ、同学年には、橋本清・野村弘樹(元;横浜ベイスターズ)・片岡篤史(元;日本ハムファイターズ)、1学年下には、宮本慎也(元;東京ヤクルトスワローズ)などがおり、入学後は、当時3年生だった桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」で相部屋でもありました。
高校時代
立浪は、2年の春(第58回高等学校野球選手権大会)、3年の春(同59回)、3年の夏(第69回高等学校野球選抜大会)の計3回、甲子園に出場しています。
2年の春は初戦の浜松戦で敗退し、その年の夏も地方大会で姿を消しています。
立浪がもっとも輝いたのは、3年の春と夏。
PL学園野球部主将として臨んだ春の大会は、初戦の西日本短大付に3-1で勝利すると、その後は広島商(8-0)、帝京(3-2 準々決勝)、東海大甲府(8-5 準決勝)、関東一(7-1 決勝)を破り見事に優勝を果たします。
迎えた夏の大会は初戦の中央戦で勝利(7-2)すると、九州学院(7-2)、高岡商(4-0)、習志野(4-1)、帝京 準々決勝(12-5 準決勝)、常総学院(5-2 決勝)を破り、当時では史上4校目となる春夏連覇を達成しました。
※立浪の甲子園通算成績
打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 打率 | |
通算 | 48 | 18 | 2 | 12 | .375 |
立浪和義まとめ!
- 大商大堺の入学を断り、PL学園に入学
- PL学園野球部主将
- 甲子園春夏連覇達成
立浪は、常に相手や周囲に気配り目配りが出来る人間でした。
1学年後輩の宮本が立浪の立ち居振る舞いを見て、「このひとはすごい!」と感じたエピソードを語っています。
ある日、監督から「爪切りを貸してくれ」と言われた時に、爪切りの尖った部分を自分に向け、相手に刃先が向かないように手渡しをしていたのです。しかも、爪切りをあらかじめ開いて、次のアクションですぐに切れるように準備していたのです。
爪切り一つでこれだけ細やかな気遣いを10代の高校生が実践していたことに驚愕したと言います。
小さなことかも知れませんが、立浪のこのような振る舞いは私生活だけでなく、プレーでも発揮されていて、ランナーコーチがおかしな動きをしていたりすると、すぐに気づいて対応するといった具合でした。
当時の監督の中村は、立浪世代のPL学園を、とにかくチームワークの良いチームだったと語っていました。それは、立浪が実力だけでなく、人間性も評価をされ、キャプテンとしてチームをまとめ上げる力に長けていたからではないでしょうか。