管理野球とは、野球において勝つことを目的とした戦略論の1つです。
管理野球を実践した監督として有名なのが広岡達朗(ヤクルトスワローズと西武ライオンズで監督を歴任)。
インターネットで「管理野球」と検索をかけると、上位に「広岡達朗」と出てくることからも、「管理野球=広岡達朗」として広く世間に認知されています。
広岡の管理野球は、選手の役割分担を決めてそれぞれの役割を完璧に果たすように教育し鍛え上げるプレー面での管理と、夜遊びや度を越した飲酒を禁止し、食事のメニューまで規制を加える生活面での管理の両方を選手に課していました。
DH制や投手による分業制などの役割分担が進む現代野球においては、プレー面における管理野球を徹底する監督はプロ野球に限らずアマチュア野球においても多く見られるようになりましたが、広岡達朗の管理野球の特徴でもある生活面での管理野球とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。
広岡達朗の管理野球
私の野球スタイルは、海軍の「軍律」と同じ。上官の命令への絶対服従が当たり前。
ファンのため、チームのために自分の生活を賭けて死にもの狂いで戦うのに、「監督の指示に従えません」では勝てない
これは広岡達朗の言葉です。
禁酒・禁煙・禁麻雀、食事では白米より玄米の励行に野球選手にとって定番でもある肉の大量摂取まで御法度。
グラウンド上では口うるさいほど基本の徹底を課しているばかりか、ユニフォームを脱いでも管理されるのだから選手にとってはたまったものではありませんでした。
当時を振り返っての石毛宏典(元;西武ライオンズ)のインタビューです。
当時の管理野球に対しての生々しい事実を語っています。
管理野球の逸話
- 選手の冷蔵庫の中身をチェックしていた
食事管理の一環として当時の西武ライオンズで行われていた実際の出来事。
広岡が自ら行ったのではなく、ヘッドコーチだった森祇晶が「監督の命令だ」として広岡の意図を組んで行ったこと。
- 肉やコーラの摂取を制限
「肉は酸化している腐敗物」という考え方から、若いころはどれだけ好きなものを食べても体が中和する力を持っているが、25歳を過ぎるとその能力が衰えてくるため、極力、酸性のものを減らさないといけないというもの。
酸化物を無自覚に体内に取り入れていれば体調を崩すのは当然とし、プロ野球選手である以上、体の管理を徹底させる義務があるという考えを元に実施。
管理野球による成果
当時の選手にとっては、試合の後はビールを飲んで肉を食べるのが当たり前。
暴飲暴食し、食事のことなど全く異質の分野のことと考えていました。
現代野球においては、「食育」という言葉があるように、バランスの取れた食生活は子供から大人まで広く常識として捉えられており、その意味で広岡の管理野球は時代の先端を走っていたと言えます。
~広岡の監督時代の成績~
年 | 球団 | 順位 |
1976 | ヤクルト | 5位 |
1977 | ヤクルト | 2位 |
1978 | ヤクルト | 1位 |
1979 | ヤクルト | 6位 |
1982 | 西武 | 1位 |
1983 | 西武 | 1位 |
1984 | 西武 | 3位 |
1985 | 西武 | 1位 |
ヤクルトの監督に就任した1976年は、当時の監督であった荒川博が成績不振でシーズン途中で休養に入り、広岡が正式に監督に就任したのは6月17日からでした。
この年までのヤクルトは15年連続でシーズン負け越しを記録するような最弱球団でしたが、広岡が1シーズンを通して指揮をとった1977年には成績が一変します。
管理野球を敢行した広岡ヤクルトは、この年に球団創設以来初の2位に躍進し、1978年には日本一に輝いたのです。
管理野球まとめ
- 役割分担と役割を完璧に果たすように徹底的に鍛え上げるプレー面の管理
- 禁酒・禁煙・禁麻雀、肉の摂取制限など生活面の管理
2019年に日本一の成績を収めた福岡ソフトバンクホークスの工藤公康監督、同年シーズン1位の埼玉西武ライオンズの辻発彦監督、秋山幸二(元;福岡ソフトバンクホークス監督)や伊東勤(元;千葉ロッテマリーンズ監督)、渡辺久信(元;埼玉西武ライオンズ監督)。
管理野球の代名詞的存在と言われる広岡達朗の指導を受け、その影響を大きく受けた選手たちは、後に指導者としても素晴らしい成績を収めています。