2013年、東京ヤクルトスワローズに所属するウラディミール・バレンティンが、シーズン60本塁打という記録を樹立しました。
それまで、シーズン本塁打記録は55本であり、王貞治、タフィ・ローズ、アレックス・カブレラが保持していました。
また、通算本塁打の記録は現在でも王貞治が保持しており、868本と圧倒的な記録です。
一方で、メジャーリーグではシーズン本塁打記録、通算本塁打記録ともにバリー・ボンズが保持しています。
今回の記事では、ボンズの成績や活躍、薬物問題について解説します。
バリーボンズの活躍と薬物問題
ボンズは1964年に、ボビー・ボンズの長男として誕生しました。
当時、父ボビーはまだサンフランシスコ・ジャイアンツに入団したばかりの、マイナーリーガーでしたが、のちにジャイアンツの主力選手となります。
そのため、ボンズは幼い頃から、父の所属するジャイアンツの試合を観戦していたようです。
そんなボンズは、高校・大学時代を通して野球で活躍し、1985年のドラフトにて、全体6位という高い順位で指名され、ピッツバーグ・パイレーツに入団しました。
ボンズはマイナーリーグでもすぐに活躍し、ドラフトからわずか11か月後の1986年5月30日に、メジャーリーグデビューを果たします。
すると、わずか113試合の出場ながら16本塁打、36盗塁を記録し、新人王投票では6位に入りました。
しかし、打率は.223にとどまり、102三振を喫するなど、粗削りな一面もありました。
その後、ボンズはメジャーリーグに定着し、1988年にはOPS.859を記録するなど、まずまずの成績を残していました。
そんなボンズがメジャーリーグを代表する選手になったのは、1990年のことです。
まず、シーズンの前半戦に打率.340、15本塁打、24盗塁を記録し、初めてオールスターゲームに選出されます。
さらに、後半戦は本塁打と盗塁のペースが上がり、シーズン通算で打率.301、33本塁打、52盗塁を記録しました。
ボンズの活躍に合わせて、パイレーツは95勝67敗という成績を残し、11年ぶりの地区優勝を果たします。
ボンズは史上2人目の30本塁打、50盗塁を記録したこと、パイレーツを地区優勝に導いたことが認められ、MVP、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞を初受賞しました。
ボンズの活躍はその後も続き、1992年には2度目のMVPを受賞しています。
下の動画は、1992年のプレーオフにて、ボンズがアトランタ・ブレーブスのトム・グラビンから本塁打を放ったときのものです。
そんなボンズは、1992年のオフシーズンにフリーエージェントとなり、父ボビーがかつて活躍したジャイアンツと、当時最高額となる6年4375万ドルの契約を結びました。
移籍後の1993年には、46本塁打を記録して初の本塁打王に輝き、3度目となるMVPを受賞しています。
さらに、1996年には史上2人目となる40本塁打、40盗塁を記録し、1998年には史上初となる通算400本塁打、400盗塁を記録しました。
下の動画は、ボンズが40本塁打、40盗塁を記録したときのものです。
しかし、1994年から1999年の間は、打撃タイトルを獲得できなかったことや、ジャイアンツが1997年を除いてプレーオフを逃していたこともあり、MVPを受賞することができませんでした。
それでも、2000年には自己最多となる49本塁打を記録し、MVP投票では2位に入ります。
そして、2001年には開幕から驚異的なペースで本塁打を量産し、10月5日のロサンゼルス・ドジャース戦で、シーズン本塁打記録となる71本塁打を記録しました。
最終的に、メジャーリーグ記録となる73本塁打、長打率.863を記録し、4度目のMVPを受賞しました。
それ以降も驚異的な活躍が続き、2002年には打率.370で初の首位打者に輝いたうえ、46本塁打という記録を残して5度目のMVPを受賞します。
2003年には、わずか130試合の出場で45本塁打を記録し、6度目のMVPに輝きました。
そして、2004年には打率.362で2度目の首位打者となっただけでなく、メジャーリーグ記録となる232四球、出塁率.609、OPS1.422を残し、7度目のMVPを受賞しました。
ところで、ボンズは本塁打が増加してきた2000年頃から体格が巨大化しており、アナボリックステロイドやヒト成長ホルモンなどの筋肉増強剤を使用しているのではないかと噂されるようになっていました。
これに対しボンズは、2003年12月4日に開催された連邦大陪審(犯罪を起訴するか否かを決定する機関)にて、「禁止薬物を故意に使用したことはない」と証言しています。
しかし、2006年3月23日に、ボンズが「1999年から少なくとも5年にわたり、禁止薬物を使用していた」としている暴露本が出版されました。
さらに、2007年1月11日には、ボンズが2006年の薬物検査において、禁止薬物のアンフェタミンに陽性反応を示していたことが報道されました。
この頃、ボンズはハンク・アーロンの持つ通算本塁打記録(755本)に迫っており、薬物問題が明らかになるにつれ、ファンやメディアの反応も厳しくなっていました。
そんななか、2007年8月7日のワシントン・ナショナルズ戦にて、ボンズは新記録となる756本塁打を記録しました。
その後、記録を762本塁打まで伸ばしましたが、年俸の高さやチームの若返りの方針などにより、ジャイアンツを退団することが決まりました。
また、ボンズを獲得する球団がいなかったため、2007年を最後にボンズは引退をしました。
引退後のボンズ
結局、ボンズはMVPを7回、シルバースラッガー賞を12回、ゴールドグラブ賞を8回という輝かしい実績を残しました。
しかし、薬物問題は引退後も続きます。
2007年11月15日、連邦大陪審はボンズが「薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」として、ボンズを起訴します。
ボンズの裁判は2011年3月21日より始まり、司法妨害罪で有罪となった結果、2年間の保護観察処分と30日間の自宅謹慎が言い渡されています。
また、薬物問題はボンズのアメリカ野球殿堂入りにも影響を与えています。
野球殿堂に入るためには、全米野球記者協会の記者のうち75%から得票する必要がありますが、8回目の投票となった2020年の投票の時点では、まだ75%を獲得することができていません。
回数 | 年 | 得票率(%) |
1 | 2013 | 36.2 |
2 | 2014 | 34.7 |
3 | 2015 | 36.8 |
4 | 2016 | 44.3 |
5 | 2017 | 53.8 |
6 | 2018 | 56.4 |
7 | 2019 | 59.1 |
8 | 2020 | 60.7 |
しかし、毎年投票率が上昇しているため、将来的に野球殿堂に入る可能性は十分にあるようです。
バリーボンズのプレースタイル
ボンズといえば本塁打のイメージが強いですが、史上初の500本塁打、500盗塁を記録していることや、ゴールドグラブ賞を8回受賞していることから、走攻守の全てにおいて優秀だったといえます。
また、選球眼も極めて優れており、100三振は1回しか記録していない一方、100四球は14回記録しています。
しかし、四球が多い背景には敬遠の多さがあり、史上最多となる通算688敬遠を記録しています。
特に、232四球を記録した2004年には、シーズン記録となる120敬遠を記録しました。
バリーボンズの年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 四球 | 打率 | OPS |
1986 | PIT | 113 | 92 | 16 | 48 | 65 | .223 | .746 |
1987 | PIT | 150 | 144 | 25 | 59 | 54 | .261 | .821 |
1988 | PIT | 144 | 152 | 24 | 58 | 72 | .283 | .859 |
1989 | PIT | 159 | 144 | 19 | 58 | 93 | .248 | .777 |
1990 | PIT | 151 | 156 | 33 | 114 | 93 | .301 | .970 |
1991 | PIT | 153 | 149 | 25 | 116 | 107 | .292 | .924 |
1992 | PIT | 140 | 147 | 34 | 103 | 127 | .311 | 1.080 |
1993 | SFG | 159 | 181 | 46 | 123 | 126 | .336 | 1.136 |
1994 | SFG | 112 | 122 | 37 | 81 | 74 | .312 | 1.073 |
1995 | SFG | 144 | 149 | 33 | 104 | 120 | .294 | 1.009 |
1996 | SFG | 158 | 159 | 42 | 129 | 151 | .308 | 1.076 |
1997 | SFG | 159 | 155 | 40 | 101 | 145 | .291 | 1.031 |
1998 | SFG | 156 | 167 | 37 | 122 | 130 | .303 | 1.047 |
1999 | SFG | 102 | 93 | 34 | 83 | 73 | .262 | 1.006 |
2000 | SFG | 143 | 147 | 49 | 106 | 117 | .306 | 1.127 |
2001 | SFG | 153 | 156 | 73 | 137 | 177 | .328 | 1.379 |
2002 | SFG | 143 | 149 | 46 | 110 | 198 | .370 | 1.381 |
2003 | SFG | 130 | 133 | 45 | 90 | 148 | .341 | 1.278 |
2004 | SFG | 147 | 135 | 45 | 101 | 232 | .362 | 1.422 |
2005 | SFG | 14 | 12 | 5 | 10 | 9 | .286 | 1.071 |
2006 | SFG | 130 | 99 | 26 | 77 | 115 | .270 | .999 |
2007 | SFG | 126 | 94 | 28 | 66 | 132 | .276 | 1.045 |
通算 | 22年 | 2986 | 2935 | 762 | 1996 | 2558 | .298 | 1.051 |
- PIT:ピッツバーグ・パイレーツ
- SFG:サンフランシスコ・ジャイアンツ
各年度の太字はリーグ最高
バリーボンズにまつわるエピソード
① ボンズの父
「ボンズの活躍」の冒頭で触れたように、ボンズの父ボビーはジャイアンツの主力選手でした。
ボビーも走攻守に優れた選手であり、30本塁打30盗塁を5度記録しており、これは息子と並んで史上最多です。
通算では332本塁打、461盗塁を記録し、ゴールドグラブ賞を3回受賞しています。
また1993年にはジャイアンツのコーチに就任し、息子を指導したことがあります。
② ボンズとパイレーツ
ボンズがパイレーツに所属していた頃、パイレーツは1990年から1992年にかけて地区3連覇を果たしていました。
しかし、ボンズが1992年のオフシーズンに移籍してからは、パイレーツは長い低迷期に突入してしまいます。
年 | 勝率 | 地区順位 | 年 | 勝率 | 地区順位 |
1992 | .593 | 1 | 2003 | .463 | 4 |
1993 | .463 | 5 | 2004 | .447 | 5 |
1994 | .465 | 3 | 2005 | .414 | 6 |
1995 | .403 | 5 | 2006 | .414 | 5 |
1996 | .451 | 5 | 2007 | .420 | 6 |
1997 | .488 | 2 | 2008 | .414 | 6 |
1998 | .426 | 6 | 2009 | .385 | 6 |
1999 | .484 | 3 | 2010 | .352 | 6 |
2000 | .426 | 5 | 2011 | .444 | 4 |
2001 | .383 | 6 | 2012 | .488 | 4 |
2002 | .447 | 4 | 2013 | .580 | 2 |
- 1994~1997年・2013年は地区5チーム、1992年・1998~2012年は地区6チーム、1993年は地区7チーム
パイレーツは1993年から2012年まで、実に20年連続で負け越しており、アメリカの4大プロスポーツ(野球、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケー)では史上初のことでした。
しかし、2013年には21年ぶりとなる勝ち越しを果たし、ワイルドカードでプレーオフに進出して、低迷期を終わらせることができました。
③ ハイレベルだった本塁打王争い
ボンズは通算762本塁打を記録しただけでなく、シーズン40本塁打以上を8回記録していますが、本塁打王は2回しか獲得していません。
これは、ボンズが活躍していた1990~2000年代のナショナルリーグは、本塁打王争いがハイレベルだったためです。
年 | ボンズの本塁打数 | 本塁打王 |
1993 | 46 | ボンズ |
1994 | 37 | マット・ウィリアムズ(43) |
1995 | 33 | ダンテ・ビシェット(40) |
1996 | 42 | アンドレス・ガララーガ(47) |
1997 | 40 | ラリー・ウォーカー(49) |
1998 | 37 | マーク・マグワイア(70) |
1999 | 34 | マーク・マグワイア(65) |
2000 | 49 | サミー・ソーサ(50) |
2001 | 73 | ボンズ |
2002 | 46 | サミー・ソーサ(49) |
2003 | 45 | ジム・トーミ(47) |
2004 | 45 | エイドリアン・ベルトレ(51) |
ボンズが活躍していた当時、通算583本塁打を記録したマグワイアや、通算609本塁打を記録したソーサも活躍していました。
また、上の表のうち、ビシェット、ガララーガ、ウォーカーはコロラド・ロッキーズの選手です。
ロッキーズの本拠地のデンバーは標高が高いため、打球が飛びやすいとされています。
そのうえ、当時のロッキーズには強打者が揃っており、上の表の打者だけでなく、ビニー・カスティーヤ(1998年に46本塁打)、エリス・バークス(1996年に40本塁打)、トッド・ヘルトン(2001年に49本塁打)らが、本塁打を量産していました。
このように、本塁打王争いが熾烈だったため、2回しか本塁打王を獲得できなかったようです。
④ スプラッシュヒット
2000年からジャイアンツの本拠地のなったパシフィック・ベル・パーク(現オラクル・パーク)は、右翼の外が海になっています。
ボンズはジャイアンツに所属していたとき、本塁打をこの海に打ち込んでおり、これはスプラッシュヒットと呼ばれています。
ボンズは35回スプラッシュヒットを記録しており、これは史上最多です。
⑤ ボンズと日本人選手
ボンズは2002年、新庄剛志とチームメートとなっており、当時のジャイアンツではレフトをボンズ、センターを新庄が守っていました。
また、ボンズはイチローの安打記録に対して、「ピート・ローズの安打記録を抜くことに関しては賛否両論があるだろうが、自分はローズ以上の実力者と認めている」と評価しています。
まとめ
- ボンズはメジャーリーグのシーズン本塁打記録(73本)、通算本塁打記録(762本)を保持している強打者。
- 本塁打だけでなく、四球、敬遠の通算記録と、四球、敬遠、出塁率、長打率、OPSのシーズン記録を保持している。
- ボンズは走攻守に優れており、史上唯一の500本塁打、500盗塁を達成している。
- ボンズは薬物を使用していたため、2020年の時点でアメリカ野球殿堂に入ることができていない。