長い日本プロ野球の歴史の中で、唯一、トリプルスリー(1シーズン、3割30本塁打30盗塁)を複数回達成した山田哲人。
今では日本を代表する選手となった山田の高校時代を振り返って行きます。
山田哲人の高校時代
履正社高校入学
山田は兵庫県豊岡市出身。
小学2年生から宝塚リトルリーグで野球を始め、俊足とバネを武器に小学3年生時にはジャンピングキャッチを披露するなど、守備の面で目立つ存在でした。高学年になると打撃面も開花。小学生ながらに変化球を狙う勇気があり、打率は7割ほどだった。
中学ではヤングリーグの兵庫伊丹でプレー。山田の1学年上には後に甲子園に出場する選手が6人もいたが、足は2年生の山田が一番速かった。
また、元阪神で代打の神様と言われた八木裕が中学時代の山田の打撃を偶然見て、「タイミングの取り方がものすごくいい。」と驚いたと話しています。
高校は自らの判断で履正社高校へ入学することになります。
履正社高校時代
履正社高校に入学した山田は、1年夏からベンチ入りし、2年夏には二塁手でレギュラーを務めます。
高校2年生だった2009年の秋から翌年の春にかけて、プロのスカウトやメディアにおける山田への評価は二分していました。高い運動神経など素材は誰もが認めるところだったが、試合におけるインパクトに欠けていたためです。
履正社高校の岡田龍生監督も「ええ素材を持っているのにもったいない選手やなって、僕だけではなくてコーチたちといつも話題にしていました。もっと真剣に取り組んだら、持っている才能が開花するのにと思っていました。それでモチベーションを高めようと色々したんですけどね、山田には響かなかった。そんな程度の取り組む姿勢なんやったら、公立の学校でやりゃええのにと思うくらいでした」と語るほどでした。
転機 ~PL学園戦~
そんな山田を劇的に変えたのが、2年秋の大阪府大会でした。
準々決勝のPL学園戦で3-5で敗れ、翌春の選抜出場権を逃した後、劇的に意識に変化が生まれます。
この試合は7回まで3-3の同点で推移していました。しかし、8回に山田の守備のミスから失点。試合終盤に回ってきたチャンスでも山田は凡退してチームが敗れました。この試合について、山田はのちに回想しています。
「自分のミスで失点して、バッターボックスでも結果が出なかった。どうでもいい試合では打てるのに、相手がPLとか大事な試合になると結果が出ない。「ココイチ」で弱いなと、それを痛感させられた」
それからの山田は一変し、フリーバッティングの練習でも頭の中で場面を想定してバッターボックスに立ち、自分自身にプレッシャーをかけることで日々成長していったのです。
年が明けて春になると、山田は見違えるように成長しました。
3年夏の大阪府大会の4回戦で再びPL学園と対戦します。
2点ビハインドで迎えた9回表の攻撃。この回に同点に追いつかないと山田の夏は終わってしまう大事な場面。一死二・三塁の好機で山田に打席が回ってきます。
この緊迫した場面で、山田は同点適時打を放ちます。
試合は延長になるも、履正社がPL学園を下し、そのまま甲子園まで進みます。
第92回全国高等学校野球選手権大会
甲子園での初戦は、同じ近畿勢の天理高校と対戦。天理は中村奨吾(千葉ロッテマリーンズ)など大型選手を揃え、県大会を猛打で勝ち上がって来ていました。
この試合、山田の3打数2安打、重盗からのホームスチールを決めるという活躍もあって4-1で天理を下した履正社は、ベスト8をかけて聖光学院と対戦します。
聖光学院には当時2年生エースの歳内宏明(阪神タイガース)がいました。
この試合で山田は、6回表に同点2ラン本塁打を放ちますが、8回裏に3点を勝ち越されて2-5で敗退し、山田にとって最初で最後の甲子園は幕を閉じました。
山田哲人まとめ!
- 素材はピカイチも野球に対する真剣さに欠けていた
- PL学園戦での転機
- 甲子園出場は3年夏の1回
2度目のトリプルスリーを達成した山田は、「人生でのベストアーチは、どの一本ですか?」とのインタビューを受けています。
質問をした記者は、どんな場面の誰から打った本塁打なのか、さすがに1本を選ぶのは大変だろうから、かなり熟考するだろうと思っていたそうです。しかし、その答えは即答で返ってきました。
「甲子園での本塁打ですかね。高校時代の。」