甲子園で活躍した選手

【清原和博】甲子園最多本塁打記録保持者!高校時代のエピソードと甲子園での成績!

第102回全国高等学校野球選手権が新型コロナウイルスの影響を受け中止となりました。

夏の選手権大会としては戦後初の中止で、1918年、1941年に続き3度目。

このニュースに対し、誰よりも選手目線で、選手の気持ちを代弁したコメントを残していたのが清原和博でした。

「野球少年にとっては人生最初の夢なんです。お母さんには朝早くから弁当を作ってもらって、暑い日も寒い日も雨の日も甲子園を夢見てやってきたんです。その間に、どれだけの汗を流して、どれだけの涙を流してきたか。最後の夏というのは決して高校3年間だけのものではなくて、球児やお母さん、家族にとっても少年時代の集大成なんです。でも、じゃあ今の僕に何が出来るかと言ったら何もできないんです。。。彼らと一緒に泣くことしかできないんです。」

テレビでの大会中止のニュースを見て清原は泣いていました。

 

甲子園に対する強い思いを持ち、選手の気持ちになって涙する心の持ち主である清原和博の高校時代を振り返って行きます。

清原和博の高校時代

PL学園入学

清原は大阪府岸和田市の出身。

小学3年生の時点で身長が155cmあり、所属していた岸和田リトルでは、4年生でありながらすでにチームのレギュラーとしてプレーをしていました。岸和田シニアで過ごした中学時代には、4番エースとして全国大会に出場し、準優勝という成績を残しています。

 

高校入学に際し、30校もの学校からの勧誘を受けていましたが、母親が天理市出身だったということもあり、当初は天理高校に進む予定でしたが、父親と見学に行ったPL学園のキャンパスや野球部のグラウンドの立派さと練習風景に圧倒されて、急遽、進路をPL学園に変更することになります。

PL学園時代

PL学園に入学した清原は、すぐに頭角を現します。

6月に行われた興南高校との練習試合で、代打で出場した清原は、練習試合とは言え初めて高校生のピッチャーが本気で投げる球を打ち、右中間を抜けるライナーでの2塁打を放ちます。

しかもその時の相手投手は、後に阪神タイガースで活躍する仲田幸司でした。

 

1年生からチームの4番として、第66回全国高等学校野球選手権大会に出場。

この大会で優勝した清原は、2年生の春夏では共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は自身2度目の優勝を経験しています。

 

※甲子園成績

試合 打数 安打 本塁打 打点 打率
1983年(夏) 6 23 7 1 5 .304
1984年(春) 5 17 8 3 8 .471
1984年(夏) 6 21 10 3 7 .476
1985年(春) 4 14 5 1 1 .357
1985年(夏) 5 16 10 5 8 .625
通算 26 91 40 13 29 .440

 

清原が甲子園で放った13本塁打(高校通算は64本塁打)は、今でも甲子園最多本塁打記録として残っています。

 

高校通算64本もの本塁打を放った清原が、最も印象に残っている本塁打があります。

それは高校3年生の夏の大会。準々決勝で対戦した高知商業の中山裕章(元;横浜大洋ホエールズ)から放った本塁打です。

 

「真ん中高めの速球をバットが捉えた。角度もタイミングも完璧だった。金属バットの芯と硬球の芯が完全に重なって、ギンッという特有の金属音が鳴った。打球が見たこともない角度で矢のように飛んで行った。ベンチでは中村監督までが立ち上がって、ボールの落下地点を確認していた。笑顔を通り越して、苦笑いに近かった。」と当時を振り返り清原は語っています。

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清原和博まとめ!

清原和博まとめ!
  • もともとは天理高校への進学を予定していた
  • 春夏合わせて5度の甲子園出場
  • 1年の夏から4番として活躍
  • 甲子園最多本塁打記録保持者

現在の制度で、高校球児が甲子園に出場できる回数は最高で5回。

小学3年生から甲子園にあこがれ野球を始め、家族とともにその夢に向かって歩んできた清原は、その5回すべてに出場し最低でもベスト4(準決勝)の成績を残しました。

そんな清原だからこそ、この度の甲子園中止の報道を受け、自身の経験をもとに語った言葉は全国の高校球児だけでなく、その球児に関わってきた家族や親戚、監督やコーチなどの心の代弁者だったのではないでしょうか。

 



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