2009年春、長崎県北松浦郡にある県立高校がとんでもない快挙を成し遂げます。
2002年まで北松南という校名だったその学校は、二人の指導者によって甲子園強豪校となり、2009年のセンバツ大会では一人の絶対的エースの存在によって全国にその名をとどろかせることになります。
校名は「清峰高校」。
そしてその清峰高校の野球部員として、後に全国優勝を成し遂げ、広島東洋カープに入団することになる絶対的エースだった今村猛の高校時代について振り返って行きます。
今村猛の高校時代
清峰高校入学
今村は、長崎県佐世保市の出身。
小学3年生の時に野球を始め、主に遊撃手と投手を兼任していました。
中学ではクラブチームではなく、地元の佐世保市立小佐々中学校で内野手としてプレーしていました。2年生の時には九州大会で優勝し、横浜スタジアムで行われた第22回日本少年軟式野球大会に出場、1回戦でこの大会で優勝する神奈川県代表に敗れています。
高校は地元の清峰高校に進学。
2001年に吉田監督と清水コーチが就任し、今村が入学するまでの間、清峰高校は、2005年夏、2006年春(準優勝)・夏と甲子園出場を果たしていました。
高校時代の活躍
今村は1年夏からベンチ入りし、清水コーチの厳しい練習に耐えながら、その秋には球速が140kmを超えます。
2年の夏には第90回全国高等学校野球選手権記念大会に出場。1回戦は白鴎大足利と対戦。
先発は3年生の古賀でしたが、5回裏から登板し、被安打2、失点0、打っては2打数2安打で勝利(11-3)に貢献しています。
2回戦の相手は東邦高校。先発した今村でしたが、本塁打を浴びるなど5失点し、4-5で敗退しました。
第90回全国高等学校野球選手権記念大会
対戦相手 | 投球回 | 被安打 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | |
1回戦 | 白鴎大足利 | 5 | 2 | 5 | 0 | 0 |
2回戦 | 東邦 | 8 | 6 | 8 | 5 | 5 |
通算成績 | 13 | 8 | 13 | 5 | 5 |
2年秋の九州大会では4試合連続完投し、防御率は0.49。打っては準決勝の明豊戦で特大の本塁打を放つなどチームの優勝の立役者となりました。
明治神宮大会に出場した清峰高校でしたが、今村が体調を崩していたため、本来の半分の力も出せず初戦の西条高校戦で8-12で敗退しています。
第81回選抜高等学校野球大会
秋に九州大会を制し明治神宮大会では初戦で敗退したものの、選抜大会への出場をほぼ確実にしていた清峰の吉田監督は、「全国の注目を浴びなくて済む「しめしめ」とすら思っていました」と、今村の好調時の投球を全国に知らしめることなく、その力を隠して本番に挑めることを喜んでいました。
超高校級の投手・今村を擁し、このチームなら長崎に初めて全国優勝をもたらすチャンスがあると感じていたのです。
今村は、1回戦の日本文理、2回戦の福知山成美と連続で完封。準々決勝の箕島戦でも8回まで失点0に抑えると9回はマウンドを譲ります。準決勝の報徳学園戦では1失点完投、清峰は選抜大会2度目の決勝進出を決めます。
決勝の相手は、菊池雄星(シアトル・マリナーズ)を擁する花巻東。
右の今村、左の菊池。当時の高校野球界を代表する左右の両輪が投げ合う形となった決勝戦はお互いに持ち味を発揮し、6回を終わって0-0。7回表に二死から四球で出塁した走者を次打者が値千金の二塁打で返し、この1点を守り切った清峰が優勝を果たしました。
第81回選抜高等学校野球大会
対戦相手 | 投球回 | 被安打 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | |
1回戦 | 日本文理 | 9 | 7 | 12 | 0 | 0 |
2回戦 | 福知山成美 | 9 | 8 | 11 | 0 | 0 |
準々決勝 | 箕島 | 8 | 4 | 10 | 0 | 0 |
準決勝 | 報徳学園 | 9 | 6 | 9 | 1 | 1 |
決勝 | 花巻東 | 9 | 7 | 5 | 0 | 0 |
通算成績 | 44 | 32 | 47 | 1 | 1 |
今村猛まとめ!
- 地元の中学校の野球部で野手として全国大会出場
- 長崎県初の全国制覇
- 卓越した投球術
決勝戦後、花巻東の打者が残した言葉があります。
「決して打てない投手だとは思わなかった。甘い球も多かったが、それを見逃してしまった。」
実は、これこそが今村の真骨頂。
無走者の時や相手に打ち気がないとみると平気で甘い球も投げ、ピンチの時や勝負どころではギアを入れ替えたように150km近い速球と鋭いスライダーを投げ込む。
2年生の夏の甲子園敗退の反省から身に付けた投球術で成し得た選抜優勝だったのです。